冨田潤 染織展 

Jun Tomita
2004年4月6日(火)〜4月24日(土)
AM11:00〜PM7:00 (最終日PM5:00終了)
期間中は日、月休廊いたします。
古い裂にしか興味がなく、現代のものは面白くないという私の固定観念を、たった一枚のカード、それも会期の過ぎてしまった個展の案内状が見事にくつがえしてくれた。
それは、英国でモ織モを学んで帰国した作家の最初の東京での個展の案内状で、そしてそれが冨田潤の布との出合いであった。二十年前のことである。
以来、彼の紡ぎだす様々の布を、タペストリーに、ラグに、またはクッションの素材として贅沢にも使用して来た。
彼の作品の持つ古い裂に負けない力強さは、単に見られる為にのみ創られるのではなく、生活の中の一部として供されることを拒否しないからだろうか。
今、吾々が素晴らしいアートだと壁に掛け眺める古い時代、遠い国の人々が織った裂は、お祭り或はハレの日に装う衣だったりするものが多い。気の遠くなる程の長い時間と根気、身を覆う森羅万象の影が産み出した巧まざる見事な意匠は、世紀を超えて今も心に訴える力強い響きを持っている。彼の布にそれに一脈を通じるものを私は見ている。
冨田潤の織り出す絣は、縦横何十種の色からなる不思議な深さと広がりを見せる。それ自体が線も形も描かない絵である。時を経た寺院や、古い町の建造物の壁が時間の経過の中でのみ得られるえも云われぬ風合いを出しているのと同じような底深い色の重なりを見せる。
時には、織り上げた布を素材として彼は供し、吾々が如何ような形で使おうが −座布団にしようが、クッションにしようが− 彼の預かり知らぬ処である。まるで古い裂が如何に転用されようが、その力強さの為にアートとして創り出されたものより、よりインパクトがあるというのに似ている。此のことは彼の根本的な技術の確かさによるという事を忘れてはならない。
何があったのか、三年ほどの間彼は機を止め農耕に励んだ。その精神の彷徨の後、再び機に向い、今ほとばしるように布を織る。
織り続けて来た絣と、今一つ、絣の上に又色を重ねてドローイングするという手法と。それは彼の一つの新しい技法への挑戦であり、内なるものの表現法方なのだろう。それはまさに糸で多彩なる絵を描いているようだ。
寡黙な作者に替って、作品は饒舌に吾々に向かって語りかけてくる。
これから彼はまだ何処へいくのだろう。それも又楽しみの一つである。(佐藤年)